忘れられない伊東静雄のことば
江川 ミキ
あの人が亡くなりましてから、満21年でございますのに、未だほんの先頃かのように、折にふれ、ことにつけて、忘れられぬことばかりであります。殊に、長い患いでありましたのに、只の一度も、たった一度も、痛いとも苦しいともいわず、最期まで生きよう生きようと努力したあの人が、いとおしくてなりません。
この世での最期の時間30分前には、いえるときにいうておきましょうと、両親を始め兄たちの戒名を唱え、お称名を唱え、そして、生き残る私たち一人一人に、別れのことばを残し、尚、今まであたたかくよせて下さった、多くの方たちの厚意を謝し、そして、自分で手を合せて、その手を胸元へ組んで、昭和28年3月12日午後7時42分、ついに、生きる努力と責任を果したかのように、而も、何の苦もなかったかのように、静かに美しく永眠いたしました。 さて、これは、伊東静雄全集の中の日記でございます。 昭和18年9月15日 桑原氏を訪問挨拶する。荷造りの最中、帰りに、「中勘助」の「蜜蜂」を買って読 む。蜜蜂は、自分の近来の心持ちに、いうにいわれぬ静粛沈静の気分を与えて くれる。感謝する。一字一字指で押さえて読みたい心持也。 とあります。 読み物にいかに感激しても、教えられても、感謝する。とは、一字一字指で押さえて読みたい心持也とは、私など、未だ未だ足らない心を恥ずかしく思います。 又、伊東静雄全集の中の散文に、「読み方」という題で、昭和18年9月12日、大阪毎日新聞の朝刊に掲載された文章がありますが、その文章にこう書いてあります。 読書というものは、丁寧で親切でありたいものだ。一字一字指で押えて、著者 が書いていくのと同じ速度で読みたい。と理想的には、そう願っている。でも、 お互いに大多忙のときである。しかし、読書の時間を見出した時の心構えは、 そんなにありたい。 とあります。 あの人は、私にも弟たちにも、読め読めとよくいいました。人間は、誰でも読むことですよ。読まねば人間はできあがっていきません。それでも、人間は、いくつになっても、できあがることはないのだろうけれども。とにかく、老いも若きも読むことですよ。というた人でありましたが、この読み方に又教えられています。 読め読め、というた、あの人は又、よく読んだ人だと思います。 中学生の頃から、そして、高校、大学よく読んだと思います。ご飯のときも、何かを読むくせのあの人は、私が上阪したとき、お姉さんが来てあるときのご飯ぐらいは、読むこと止めてはどうですか。と妻にきつくいわれて、きょとんとして大急ぎ食べ終わって、そのまま、飯台に座って体を一寸横向きにして、又読み始めたあのときの、こっけいさが今も思い出せます。もう、35年も昔のことですが。でも、あの頃は元気でしたが。 あの人が大学3年のとき、私、京都にあの人を訪ねました。小さい部屋でしたが、入って驚いたのは、本のあること多いこと、まるで、本の中にいるようでした。これでは、普通の学費しかもらっていないであろう学費も、本代になって、しまうのではなかろうかと思うほどでした。しかしその本も自分の作品も、19年の空襲でみな焼けてしまったそうであります。そのとき、あの人は本も惜しいが、本は皆一応読み終わっていたが、作品の戻らないのが惜しかったと申していました。 入院いたしましてからも、一寸と気が楽になったときなのでありましょうか、体を横にして、よく本を読んでいました。私はあれでよかろうかと心配していますのに、ある夜、ベットの上の高い電灯のあわい光の下で、同人誌のようなものを読み出しました。私はびっくりして、静雄さん、夜だけは読まないでください。こんな暗い光で、むりではないですか。と申しましたら、あの人は、姉さん、私から読むことまで、とりあげるのですか。でも、やっぱりやめねばなりませんねえ。しかし、姉さん、私からよむことをとりあげられたら、私は生きれないのです。読みたいのが私の命です。読ましてほしいです。でも、やがては、その読むことも捨てねばならないのでしょうねえ。と、さびしくいいました。あのときのこと、あのときのことばは、私の生涯、私の心から消せることはできません。 人様の目には、足らないことの、いたらぬところの多かった、あの人だったと思いますが、肉親の私たちには、教えてくれたこと、残してくれたことばも、多かったと思います。短い人生でしたのに。 殊に、人はみな、よく読むことですよ。読んで自分を育てるのですよ。読むときには、こんな心(丁寧親切)でありたい。読み方は、著者が書いていくくらいの速さで、そうして、読んだら、「感謝」してとあります。このことは、あの人の最期のことばと共に、忘れられないことばの一つでございます。 昭和50年「諌早文化第5号」 江川ミキ氏は伊東静雄の実姉 |