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(題字・伊東花子夫人)



第47回の菜の花忌





諫早市立図書館で開かれた
伊東静雄生誕百年記念文学展

同文学展会場

三好達治の碑文の初稿
諌早図書館の壁に掛かる
三好達治の碑文の初稿

7回の菜の花忌
第七回菜の花忌参列の
花子夫人・令姉江川ミキさん
(前列左→)

S47年第8回菜の花忌
S47年第8回「菜の花忌」で
謝辞を述べる伊東花子夫人


S47年第8回菜の花忌
昭和29年伊東静雄詩碑除幕式


S47年第8回菜の花忌
昭和32年桑原武夫と上村肇

詩人伊東静雄が没したのは、昭和28年3月12日であった。
郷土諌早では、上村肇を中心とした文学関係者が、伊東静雄の詩風の典雅と人格の高風を欽慕して詩碑の建立が計画され、全国の文化関係者に詩碑建設の趣意書が発送されたのは、昭和29年1月である。
その趣意書に名前を連ねた主な賛助者は、林富士馬(詩人)、蒲池歓一(詩人)、野田宇太郎(詩人)、桑原武夫(京大教授)、保田与重郎(作家)、富士正晴(詩人)、小高根二郎(詩人)、庄野潤三(作家)、佐藤春夫(作家)、三好達治(詩人)、川副国基(早大教授)、田中克己(詩人)、清水文雄(詩人)、北村徳太郎(代議士)を始めとする25名であった。
やがて全国から浄財が寄せられ、昭和29年11月23日建立の除幕式が挙行された。除幕式には、伊東花子未亡人、令姉江川ミキ氏、蒲池歓一氏、松永伍一氏、丸山豊氏他多数の文学関係者の来席を見た。
「菜花忌ーさいかきー」第1回が始まったのは、昭和40年3月、伊東静雄13回忌からであり、その後「菜の花忌」とやさしく呼ばれるようになった。

「当日の朝、私は近郊の小高い丘に散歩に出た。
そして早くも咲きかかった菜の花畑の花の美しさに、しばし気をとられた。
そして詩人伊東静雄が、3年有余の病床にあった長野分院のあるところは、どんな所か知らないが、病室の窓からも河内平野の菜の花畑が見えるところではあるまいか、その花を眺めて望郷の想いにかられている故人のことを思うと、急に、この花を今日の会に使うことを思い定めた。
それに詩人が生前ビールが好きだと聞いていたので、帰るとすぐ近くの酒店に行って、ビール空瓶を1本分けてもらい、それに畑から手折ってきた菜の花を挿して、午後からの何もない碑前に置いた。
早春の、幾らか小寒い、翳った光の中で、花は寂しくはあったが、美しく、静雄忌には最もふさわしいものに思われた。
そしてこの花を毎年1本、ビール瓶に挿し、その数を増していくことを伝統として、この忌を続けていきたいと思った。」
(昭和40年5月 「河」第4号より上村肇)

毎年3月最後の日曜日に、諌早公園中腹の碑前で、「菜の花忌」は行われ、ビール瓶と菜の花の伝統は今日も生かされている。

時は流れ第34回の「菜の花忌」には一つのメッセージが寄せられた。「ようやく司馬遼太郎の書斎の前の庭にも菜の花が咲き始めました。同じ野花を愛された詩人の魂にこの花をささげます。」発信者は司馬遼太郎夫人、福田みどりさんだった。

毎年の「菜の花忌」の折、詩碑の前で諌早中学音楽部女子生徒の清楚な合唱が歌い捧げられ、菜の花忌には欠かせない恒例の行事である。
碑文に刻まれた、「手にふるる 野花はそれをつみ 花とみずからをささえつつ 歩みをはこべ」(藤山高音作曲)の曲が参加者の心を和ませる。






          伊東静雄詩碑を尋ぬ
           林 富士馬
  つくし路の春は早かりき   東京はいまだ肌寒かりしに   麦の穂先鋭く菜の花は黄に   はや さくら花も咲きたり   その花の下に見出しぬ 「郷土諫早が生める詩人 伊東静雄碑」と。   げにも さまざまのこと思ひ出す桜哉 はせを   戦後 遂に逢い得ざりし人に   語りたきことも多かりしかど   いまは鬢髪白き旅人の一人として 共に老いたる妻の手をとり   去り難く うた人のうたの前に佇むなり。
(昭和40年1月 詩集 夕映え)






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